片田稲荷神社

志摩町史より

1  祭神   稲荷大明神、 嘉永六年(1853)京都伏見稲荷大社から勧請して鎮座。

2  由緒   安静七年(1860)、社格を昇格するため庄屋仙ェ門は氏子総代供人をつれて京都に上がり、神祗官領公文所から祭祀弁授の朱印状を授けられた。 これから稲荷神社祭祀神事の一切は平賀仙ェ門が主官してきたという。
(眷族諸神)  本村の半四郎が鳥羽藩主九鬼公に永年奉公して暇願いをしたとき、「裏に祀ってある稲荷をお授けくだされ」と所望した。殿様は「稲荷様は生き神であるから直接願ってみよ」といわれて、願ってみると「半四郎と片田へ行く」と神託があったという。

3  所蔵物 ・平賀亀祐画伯の油絵(片田出身、世界的画家)
・絵天井 野村訥斎門下の作品を格天井にしたもの。
・和具出身の伊藤玉琴の作品もある。

4  設備    本殿七坪半
社務所三十二坪
大鳥居一基
中鳥居五十七基
境内四百坪

5  稲荷信仰   今日大なり小なり稲荷神社を祀らない村は無い。 このように普及する大きな要因として、次のようなものがある。
京都伏見にある稲荷大社がこの信仰本源であって、各地とも正一位稲荷大明神の幟をかかげている。
直接間接に同社の配下に勧請したものであろう。
「田の神」「稲の神」としての信仰である。 稲荷は「いねなり」「いな荷」で農耕のはじめにこの神を田畑に迎え、秋の収穫が終わるとこの神を送り出す。 送り出された神は山に帰り山の神になるという。 狐を神の使いとする信仰である。 霊界との交渉の媒介のように見なす習慣が普及している。そしてそれが神格化していく。狐は生魚を好む習性があるので、魚を供えて漁業の大漁を願うということに結びついていく。 つまり漁師の神様でもある。そして伏見大明神を中核とする全国的信仰組織が形成されていく。
さらに衣食住の神としても信仰が厚い。

6  平成十一年(1999)の新築造営
当稲荷神社は海岸国道沿いにあり、自然の猛威をまともに受ける位置にあることから、各社殿全体の痛みが激しい。 そのため前回の昭和十一年(1936)の解体修復工事以来、実に六十有余年を経て今回の新築工事を行った。 平成十一年荷神社本殿、社務所等が新しく建て替えられ、稲荷神社全体として面目を一新した。今回の新築工事経費は本殿約三千五百万円。社務所三百八十万円。その他諸経費を含め総計約四千九百万円であった。

平成16年9月1日発行の志摩町史より

安政二年(1855)の創建である稲荷神社の格天井に、南島町(現南伊勢町)小方竈出身の円山派画家・野村訥斎 天保二年(1831)~元治元年(1864)と、その弟子有馬百鞭らで描いた極彩色の花鳥画48枚が残されている。
画家野村訥斎は、江戸に上がり円山派画家・大西椿年に入門し腕をみがいていたが、家の都合で京都の修行をあきらめ、郷里に帰った。 家族が病気になったので越賀の名医中西三進の治療を受けるために越賀に来ており、小川三左ェ門氏の別棟を借りて付き添っていた。その間、画を描いていたという。
訥斎は「雪窓」・「浮鷗」などの画号を持ち、片田などに数人の弟子がいたといわれている。
越賀在留中、他に精密な「越賀絵図」などを残している。
その後、訥斎は京に上がり、当時禁裏御用絵師であった円山応立の弟子となった。
文久元年(1861)十月、皇妹和宮が着る結婚衣裳を師に代わって作成し、好評を得、禁裏御用絵師となった。

(注) 格天井   ・・・ごうてんじょう
野村訥斎 ・・・・のむらとっさい

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